大判例

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東京地方裁判所 昭和35年(合わ)104号 判決 1960年6月16日

本籍

富山県

住居

東京都足立区南鹿浜町十五番地

中村栄信方

家庭薬品配置販売業

中村弘

昭和十二年三月十五日生

右の者に対する傷害致死被告事件について、当裁判所は検察官松本正平出席の上審理を遂げ次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、

「被告人は、昭和三十五年三月十三日午後十時半頃、東京都文京区駒込神明町百八十九番地先附近の路上を通行中、工員豊田梅男(当時二十二年)から「馬鹿野郎」と罵られたのに憤慨し、同人と口論の末逃げ出した同人を追つて同町百十六番地靴商中西末雄方前に到り、同所において前記豊田を捕え、手拳を振つて同人に殴りかかり同人を同店ショーウインドー硝子に激突転倒せしめ、その際硝子破片により頸部胸腔内切創を負わせ、よつて同時頃同町百五十七番地「鈴や楽器店」こと山田弥一方前路上において右創傷による失血により死亡するに致らしめたものである。」

というのである。

そこで本件審理に現れた各証拠につき果して被告人に公訴事実記載の所為が認められるかどうか審案するに

一、第一回公判調書中被告人の供述記載、灰田幸夫、宮本佳雄の司法警察員に対する各供述調書、第一回公判調書中証人沢本隆の証言の記載、司法警察員滝沢実作成の実況見分調書(添付の図面七枚及び写真三十二枚を含む、」検視調書及び死体検案調書医師佐久間洋行作成の被告人中村弘に対する診断書、医師上野正吉、同矢田昭一作成の鑑定書(添付の図面一枚を含む)、押収にかかる硝子破片二箇(昭和三十五年証第六八〇号)の存在によれば、被告人は昭和三十五年三月十三日夕刻頃仕事先から帰宅した後、同日午後七時半頃実兄中村栄信と共に同人等の以前の住居先(東京都文京区駒込神明町百八十九番地大塚孝太郎方)で知合つた同業者沢本隆、灰田幸夫らのもとを訪ね、互に誘い合せて同町百十四番地バー「M」及び同店の直ぐ裏手附近にある料理店「ひさご」などで飲酒した後、午後十時半頃前記バー「M」を出て帰りかけたが、その日は帰宅が遅くなつたので前記沢本らのもとに泊めて貰うつもりで同人らに伴われ、同人らの住居先である前記大塚方附近の路上に差しかかつたところ、偶々附近の料理店、酒場などで飲酒し相当酩酊し、同僚と共に被告人らと反対の方向から歩いて来た豊田梅男(当時二十二年)と擦違つた途端、同人から「馬鹿野郎」と言われたので憤慨し同人と口論するうち被告人が上衣を脱いで右豊田に立ち向おうとするや、同人が他の同僚と共に駈足で逃げ去つたので、これを追つてその場から東方に約百十三米離れた同町百十六番地靴商中西末雄方店舗附近まで到り、前記豊田に追いつき同人を捕えようとした際、同人からいきなり手拳で一回被告人の鼻中隔を殴られたこと、更に右豊田が被告人を殴打した後逃げようとして身を翻し、目前にあつた前記靴店のショー・ウインドーの硝子窓に激突し、これを破損したがその際硝子破片により前頸部に深さ縦隔に達し、左腕頭静脈を損傷する剌創等の傷を負い、その場から東方に約百四十三米離れた同町百五十七番地「鈴や楽器店」こと山田弥一方前路上まで駈けて行き、同日午後十時四十分頃同所において右剌創による失血のため死亡するに致つたこと、以上の事実が認められる。

ところで被告人は、第一回公判期日以来終始暴行の点を否認し弁護人も亦被告人に暴行の事実のなかつた旨主張するので、この点について検討するに、

二、被告人の司法警察員に対する第一回供述調書によれば、被告人は靴店の前で前記豊田を捕えたとき、同人からいきなり被告人の鼻の辺りを殴られ後方によろけたが、豊田が逃げようとしたので逃がすまいとして掴みかかつたような気がするが、その時同人の体を押したような形になつて同人は左肘を前から靴店のウインドーにぶつかつたと思う旨述べている。又、被告人の司法警察員に対する第二回供述調書よれば、被告人は靴店のウインドーに向つて電車通り側の右端の方で豊田から殴られ少し後へ退つたが、姿勢を直して同人を殴ろうとしたとき同人の体に手が触れたが、この時同人はウインドー端のところで体を右に廻してウインドーの方に向つて逃げようとした。その際体と一緒に左腕の肘の辺りと顔がウインドーの向つて右端の辺りにぶつかつたと思う旨述べ、更に被告人の検察官に対する昭和三十五年三月二十三日附供述調書によれば、被告人は靴店の前辺りで豊田に追いつき同人から殴られ一寸後退したが、癪にさわつてウインドー前附近にいた同人を二、三尺離れた所から右手拳で殴ろうと身体を起こして殴りかかつたとき、手が同人に触れたかどうか覚えていないが、同人は被告人から殴られるのを避けようとして身体を右に廻してウインドーの方に顔と左腕をぶつけたようである旨述べ、次の検察官に対する同年同月二十六日附供述調書によると、被告人は靴店のウインドーの横の所で豊田に追いつきどちらかの腕を掴えたようである。そこで豊田から殴られ電柱にぶつかつた記憶はないが、一、二歩後退し同人を右手拳で殴ろうとして二、三歩踏み出し殴りかかつたところ、同人は逃げようとして左の腕から硝子戸に突込んだ旨述べている。

ところが第一回公判調書中被告人の供述記載によれば、被告人は靴店の手前にある床屋入口附近(被告人の追跡方向に向つて左側にある。)で豊田に追いつき同人に触ろうとしたとき、同人から殴られ三歩程後退し、姿勢を直したと略々同時に硝子窓の割れる音がしたので、その方向を見たところ豊田の姿は見えなかつた。従つて同人に殴りかかつた覚えはない旨述べている。右のように被告人の各供述は何れも相互にくい違つている点が認められるので、果して何れをもつて真実に合致するものかについて検討を要するのであるが、この点につき目撃者がない以上、以上の各供述と他の資料とを綜合の上比較検討しなければならない。

三、そこで先ず被害者豊田の当時の酩酊の程度についてであるが、証人宮本佳雄の当公判廷における証言によると、豊田は日頃酒に強く当時もそれ程酔つていなかつたと思う旨述べている。

しかし前記認定事実のとおり、豊田は当時梯子飲みをしていた関係上足が多少ふらついていたことや料理店の靴べらを持ち出したり、被告人に向つて馬鹿野郎と罵つていたこと、死体解剖の結果血中アルコール濃度が〇・一四四%であつたことなどを綜合すると、豊田が当時相当酩酊していたことは争えない。

四、次に右豊田がウインドーに激突する直前の同人及び被告人の位置について検討するに、司法警察員滝沢実作成の実況見分調書(添付の図面七枚及び写真三十二枚を含む)及び当裁判所の検証調書(添付の図面二枚及び写真八枚を含む)によれば、ショー・ウインドー(地上から約〇・六米が越板で、正面に綻約一・二米、横約〇・九米、厚さ約〇・三糎の硝子板が嵌めこんであり、奥行は約〇・三米でその右側面には正面と同様厚さ約〇・三糎の硝子板が嵌めこんである。)は、正面の硝子窓の中央より下の部分と前記括弧内右側面の硝子窓の下の部分が破損しており、破損状況から推して相当強度の激突が加えられたことが認められる。

ところでウインドーの右角端から右方に約一・二米離れた地点に電柱があり、当時ウインドーの右横と電柱との間に縦約一米横約〇・六米の看板が出されていた。この状況から推察するに、ウインドーの右横附近にあつて前記右側面の硝子窓と正面の硝子窓の双方を打ち破る程の激突を加えることは殆んど不可能と見られる。しかも硝子の破損箇所が中央より下の部分であり、越板に近いとすれば尚更のことである。

この点につき第一回公判調書中証人沢本隆の証言によれば、同人は割れた硝子と電柱との間のところで、誰かが背中を向けて電柱に後退し背中をぶつけたのを見たと述べているが、それが果して誰であつたかは明かでなく、この事実をもつて直ちに被告人等がウインドーの右横附近にあつて押合いをしていたと速断することはできない。従つて被告人の司法警察員に対する第二回供述調書中「電車通りの右側で豊田から殴られた」旨の供述、被告人の検察官に対する昭和三十五年三月二十六日附供述調書中「靴店のウインドーの横の所で豊田に追い着いた」旨の供述は何れも信用し難い。

一方第一回公判調書中被告人の供述記載中被告人が豊田に追いついたときの(一)被告人と豊田との間隔、(二)被告人からショー・ウインドーまでの距離、(三)豊田とショー・ウインドーとの間隔について被告人が述べていることと、当裁判所の検証に際し被告人が指示した地点とは略一致している(第一回公判調書中の被告人の供述記載によれば、(一)は約一米、(二)約二、三米、(三)は約一米半から二米位であり、当裁判所の検証調書によれば、(一)は約〇・九米、(二)は約三・五五米、(三)約二・六五米である。)が、これと当該硝子窓の破損状況、当時破損した硝子破片のあつた位置などを綜合すると、被告人のこの供述の方が同人の司法警察員及び検察官に対する前記各供述よりも真実に近いことを肯定できる。

結局、被告人が豊田に追いつき同人から殴られた地点は、靴店のショーウインドーの正面硝子窓の前方で、かつ床屋入口の手前附近であることを認めることができるが、更に進んでそれより右ショーウインドーに接近した地点であつたことを確認することはできないと見るべきである。

五、そこで被告人が豊田に殴りかかつたという点であるが、この点に関する被告人の供述については、既に第二項に掲記のとおり捜査の段階から公判の段階に到るまでの間、その都度供述内容が違つており、この点に関する被告人の記憶が曖昧であることが認められる。

確かに被告人が豊田から罵られて興奮していたことは、被告人が上衣を脱いで豊田を追いかけている点からも推察できるし、被告人もこれを認めているので被告人が靴店の前で豊田から殴られた際、或いは興奮の余り同人に殴りかかるなどの行為に出たかも知れないことは想像できないではない。

しかし一方、前記認定事実のとおり豊田は当時相当酩酊しており、足もふらついていたこと、当裁判所の検証調書によれば、ウインドー直前の路上の一帯に凹凸(当裁判所の検証調書によれば長さ約一・四米、幅約〇・九米である。)が見られることなどから、或いは豊田自ら逃げようとして慌ててこの凹凸に躓いて硝子窓に激突したことも想像できる。

しかし以上は単に想像にしか過ぎず、前記被告人の各供述を除けば、被告人が豊田に殴りかかつたという点に関しては勿論のこと、同人を押したという事実についても他にこれを認定するに足る証拠はない。

しかも前記のとおり被告人のこの点に関する供述が何れも信用し難いものとすれば、被告人が豊田に殴りかかつたという事実は認められないと見るべきである。

六、ところで被告人において殴ろうとした事実がなくても、被告人の追跡行為を暴行と見ることができるのではないかという疑があるので、次にこの点について検討するに、一件記録によると被告人には追跡の際豊田を捕えようとする気持のあつたことは伺えるが、更に豊田を捕えた上同人に暴行を加えるまでの意図を推定するに足る資料は認められない。又追跡中被告人が豊田に向つて声をかけたような事実も認められない。検察官は追跡行為を暴行と認める判例(昭和二十五年十一月九日最高裁判所第一小法廷判決、最高裁判所刑事判例集第四巻第十一号二二三九頁)を挙げて本件に類推すべきことを主張しているが、右判例を含めて追跡行為を暴行と認める諸判例(大正八年七月三十一日大審院判決、大審院刑事判決録二十五輯八九九頁、昭和三十二年五月九日東京高等裁判所第六刑事部判決、高等裁判所判例集第十巻第三号三一〇頁)等の趣旨は、暴行と認める追跡行為自体に逃走者をして危害を予想させるような言動とか、兇器を携持するなど、客観的に相手の身体に危害を加える意思を推定させるに足る事実を伴うか、或いは既に暴行を加えられ、引き続き暴行を加えられることを避けるべく逃走した者を追つて、これをして逃げ場を失わしめるような場合に、これらの追跡を暴行と解しているのである。本件の場合、被告人において単に豊田を捕えようとする意図しかなく、追跡に際し同人に向つて危害を加えるような言動を示していない。又、追跡前の口論の際に豊田に対し暴行を加えたという事実についても、第一回公判調書中証人沢本隆の供述記載だけでは認定し難く、他にこれを認めるに足る証拠がない。更に第四項において認定したとおり被告人が豊田に追いついたと思われる地点における道路、建物の位置、状況などから同人をして逃げ場を失わしめたものとは考えられない。かような場合、この追跡行為をもつて直ちに暴行と目することはできないと見るべきである結局、本件については以上の理由で被告人の暴行の証明がないことになる。従つて傷害致死の結果について被告人にその責を帰することはできないものというべく、刑事訴訟法第三百三十六条後段により無罪の言渡をなすべきである。

よつて主文のとおり判決する。

昭和三十五年六月十六日

東京地方裁判所刑事第十五部

裁判長裁判官 山田鷹之助

裁判官 賀集唱

裁判官 高井吉夫

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